『横須賀緑荘誤爆事件』の概要
1975年(昭和50年)9月4日午前2時36分頃、神奈川県横須賀市不入斗町(いりやまずちょう)の木造2階建てアパート「緑荘」の102号室が突然大爆発した。
この爆発で同室にいた男女3人と、真上の部屋の母娘2人の合わせて5人が死亡、8人が負傷した他、緑荘と隣家1棟が全壊し2棟が半壊、36棟が一部損壊した。
当初はプロパンガスの爆発事故と見られていたが、警察が捜査したところ、死亡した102号室の男女3人は革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)の活動家であることが判明した(真上の部屋の母娘2人は中核派とは無関係)。
引用:LinkFang
【投稿者:タマさん】
私が産まれた村は田畑で仕切られた場所で、決してほかの村に行くことはありません。
部落でもなく村全部が母方の親族で、他の土地の人に会ったことはありません。
子供達は村の六角堂で集まり遊び、家の前、村を囲むような水路になっていました。
まるで、外部と遮断されるような…
当時はそれが当たり前でした。
私の祖母は元々視えるタイプだったようで、普通の人には石にしかみえないものを「あれは墓石に使われたもの」と言い当てて供養し、その夜その墓の中の方からお礼を言われた。というくらいで、ある時あるものを助けたことから、そういう役目をしていた、と母から伝え聞いていました。
そんな祖母の血を引く母も視えるタイプでしたが田舎を離れたことが原因でその能力は次第に失われていったそうです。
そして、私はと言うと、まったく視えるタイプではなかったのですが、ある日を境にはっきりと鮮明に視えるようになったのです。
これから私が話すことは、もしかしたら皆さんの気分が悪くなるなられる方もいるかもしれません。もしそのような場合は最後まで見ないようにしてください。
昭和50年、私は小学生でした。
当時お風呂もトイレもあるアパートは珍しく、その場所も村と似て周りを寄せ付けない雰囲気がありました。
その日は、一軒挟んだ奥のアパートに住む同じ歳の子と遊んでいて、白猫が車の下から出てきたので、懐いてくるその猫と遊んでいました。
その当時、トイレお風呂付きのアパートは珍しかったので両親はそこに決めたと言っていたと思います。
その遊んだ子と16時半に別れ家に帰り、いつもと変わらない夜を迎えます。
布団に入った私でしたが、その日の夜は珍しく夜中にトイレに起きました。
当時のトイレの窓は子供からすると高い位置にあり、しかも和式窓は開いてました。
眠い目をこすりながら窓を見ると、昼間遊んだT子ちゃんの顔がはっきりみえたのです。
怖いとかは感じなく寝ぼけて夢でも見てるのかな、それとも遊びに来たのかな?と、明日また遊ぼうね。といってベットに戻りました。
そして2時間後くらいでしょうか………
ものすごい爆風と音と衝撃で目が覚めました。
あたりを見回すと、大家さん宅の裏手に高い火柱がのぼっており、真っ暗な周辺や飛び出した近所の方の顔がはっきり視えるくらいの火柱が20メートルの高さまで立ち昇っていました。
ガス爆発かもしれないという話で、消防車や警察が急いでやってきました。
ガスは元栓をしめて、という指示がありました。タバコを吸う方ももちろん禁煙の状態です。
私はレースのカーテン1枚にまもられ、粉々に吹き飛んだ窓ガラスに串刺しにされていたかもしれません。
当時のアパートは吊り天井で、天井が落ちて近くに迫って来る恐怖で家にも外にもいられない私達は、ご近所みんな同じように、夜明けが来るまで家の外に集まって過ごすことになりました。
ようやく夜が明けると、私の母や周囲の大人たちは、私や他の子供たちに強引に学校に行くよう促しました。おそらくみんな一睡もしていなかったと思います。
学校へ向かう道の途中、赤い何かが落ちており、それを警察の方が段ボールにつめていた様子を鮮明に覚えています。
指がついた手を箱に入れている警察官の姿。赤と肌色のような何かを手に持って走り回っている警察官の姿。
学校についても私は気分が優れず、保健室で寝かせてもらいその日は帰宅すると、アパートに続く道には、多くのテレビ局が来ていました。
露口茂さんが険しい顔でレポートしていたのをハッキリ記憶しています。
まだ周辺は色々なものがちらばっていて、そして、うちのアパートの上にも警察がのぼって慰留品を集めていたのですが、そこには誰の目にもぬいぐるみのように見えるであろう頭のようなものがのっていて、
あとで、それがT子ちゃんの頭だと聞かされました。
ちょうどトイレの真上当たりに……。
昨夜の爆発の原因は、連合赤軍の人が民間アパートに潜入し、爆弾を作っていた最中に誤爆したとのこと。
爆弾は前日に盗まれた白い車で運んできた。と警察からきいてます。
情報が混乱してて、最初は私も犠牲者の一人とメディアで流れたので親戚から電話がかかって鳴り止みませんでした。
結局、犠牲者はT子ちゃんの住むアパートの住民と、犯人一味。
この事件は後に『横須賀緑荘誤爆事件』と呼ばれるようになります。
その日から、私は他の人が視えないものや、聞こえない声が分かるようになりました。
結局、祖母の強い願いでその街を離れることになりました。
私にとっては、この『横須賀緑荘誤爆事件』は始まりのきっかけにすぎませんでした。
それからです。私の周りで不吉なことが起き始めたのは。
私の名前を付けてくれた父の友人は、我が家のおふろで湯をたぎらせたまま亡くなってしまうという痛ましい事故が起こりました。
私の母と叔父、叔母が病で急逝しました。
私と同じ歳の友人も9月4日にスキルス胃がんが発覚し、もう1人の友人も同じ頃に大腸がんになりました。
9月4日の母の3回忌の日に、父が急逝しました。
その翌年の正月(1月4日)に父の弟が自死、
その年の夏である9月4日に、母の弟である、おじが自死しました。
何より父の命日が9月4日。
私が長年付き合って結婚直前で行方知れずになった婚約者の誕生日も9月4日。
今、共にいる夫が不治の病を発症したのも、9月4日。
ここまで来るとただの偶然とは到底思えません。
毎年、私は9月4日が来るのが怖いです。
ですから私は数年前より、9月4日の前日から禊(みそぎ)をしているのです。