【投稿者:devさん】
わたしの祖父は、山奥の田舎村の出身です。
辺り一面は田んぼと池と一面の山が広がっています。
あぜ道には夏から秋にかけて一面彼岸花が咲き乱れ美しい景色を生み出します。
山は深く生い茂り、筍やきのこといった山菜にも恵まれています。
稲作や農作で生計を立てる住民がほとんどです。
バスは一日に3本しかなく、車はかかせません。
ご近所付き合いといっても、お隣の家に行くまで、畦道を歩き続けて10分ほどはかかります。
文字通り、ステレオタイプの「田舎」です。
祖父は次男坊だったため、家を継ぐことはなく、上京しました。
祖母と結婚してからはずっと、とある地方都市に住んでいます。
わたしが幼稚園の頃から、よく法事や避暑で遊びに行きました。
しかし、そこで少し不思議な思い出があります。
わたしが、人生で初めて参列した葬式は、大祖母の葬式でした。
祖父の生家で執り行われました。
当時2歳か3歳かくらいだったわたしには葬式の意味が理解できておらず、仏間に置かれたお棺の窓を開けて「おばあちゃん、すやすやおねんねしてる!」と叫んでいました。
今でも覚えています。
祖父は「そうだねぇ。いい夢みてそうやねぇ。」と、気丈に振る舞っていました。
なぜ悲しそうにしていたのか、成長してから理解しました。
それ以降も、祖父が里帰りする際はよく遊びに行きました。
小学生1年生の夏に遊びに行った時のことです。
祖父の生家は、昔からある日本家屋に増改築を繰り返しており、正面からみると、立派なお屋敷のように見えます。
正面から見て右側の離れには、水洗トイレや風呂場を備えた建物が増設されています。
正面から見て左側には、昔からある汲み取りトイレ、所謂ボットントイレしかない古い家屋が残されていました。
もちろん、もう使われていないため、物置き場や臨時の休憩所として使われていました。
ですが、そこに見たことのないおばあさんがいたのです。
紺色のような、鼠色のような着物を着た、背中の曲がったおばあさんでした。
縁側に腰掛けて、お茶を飲んでいました。
白髪はぴっちり結い上げ、お顔は満面の笑顔で、まるでわたしたちを待っていたようににこにこしていました。
最初は誰だろう?と思いました。
本当に、覚えがありませんでした。
しかし、「いらっしゃい。遠くから来てくれてありがとう。今回も、ゆっくりしておいきなさい。」とやさしく言われ、「うん!ありがとう!」と答えた記憶があります。
怪しい気配などは全く感じませんでした。
純粋に歓迎してくれているように感じました。
「親戚の誰かかなぁ」と、深く考えることはありませんでした。
畑でキュウリをもぎ取ってそのまま食べたり、飼い犬と遊び、牛に干草をあげたりと、遊び尽くした後、親から「裏の山にお墓参りに行くからちょっとおいで」と呼び出されました。
屋敷から山道を登ったところ、屋敷の裏の平地に、一族の代々のお墓が並んでいます。
年代を調べると、戦国時代の前からずっと続いているそうです。
欠けて、苔むして、文字も読めない古いお墓から新しいお墓までずらっと並んでいます。
祖父の生家に遊びに行く時は、お墓参りもセットでした。
お墓参りが終わる頃、大人たちが火の始末や古くなった花の処分をしている間に、少し太い獣道を見つけました。
石段のようなものがあり、山の上に上がることができそうです。
道はまっすぐ続いていたので、もし迷ったら下に降りたらいいや、とその獣道を進んでいきました。
獣道は、想像以上に短く、すぐに終わりが見えてきました。
そして、開けた場所に出ました。
そこにも、お墓がありました。
名前などは彫られておらず、花も供えられていません。
大人たちはこのお墓を無視していました。
墓石も、ただの丸い岩を無理やり地面に置いたような、簡素なお墓でした。
誰のお墓かはわかりません。
しかし、お墓を無碍に扱うのは気がひけたわたしは、墓の前で手を合わせました。
下で親がわたしを探している声が聴こえたので、「今行くー!」と、そのお墓を後にしました。
そのお墓を見たのはそれが最後でした。
お墓から屋敷へ帰ると、左側の離れにいたあのおばあさんがいません。
そういえば、先程のお墓参りにも来ていませんでした。
「ここにいたおばあさんは?」と聞きましたが、親戚も親たちも、全員が「誰?」と言い返してきました。
「この離れは耐震に問題があるからもうほとんど使ってないし、人もいない。トイレに落ちたら危険だから入るなと言っていたはず。悪ふざけはやめなさい。」と皆に叱られました。
あのおばあさんは、誰だったのでしょうか。
後でこっそり離れに足を踏み入れると、埃がびっしりと積もっており、折れた鍬やもう使わない物品類が積まれていました。
わたしが見た時とは様変わりしていました。
不思議に思いつつも、それを大人たちに言うことはなく、夜になり親の車で帰路につきました。
小学3年生の時に、記録的に大きな台風が祖父の生家のあたりを襲いました。
大規模な土砂崩れが起き、あのお屋敷は半分土砂に埋もれました。
幸い、土砂は家まで進入することはなく、家は無事でした。
しかし、複数世帯が土砂崩れに巻き込まれ、生き埋めになり死者が多数出ました。
近辺に住んでいた、遠縁の親戚が、その土砂崩れで複数人亡くなりました。
わたしはその情報をニュースで見ました。
ニュースに映し出された親戚の名前は、苗字以外全くわかりません。
会ったことも、話したこともありません。
苗字だけよく知っている、親戚の名前が並んでいました。
しかし、なぜかわたしは泣き出してしまいました。
未だに、何故あの時泣いてしまったのか、わかりません。
その後、祖父の生家に行った時に、親戚が生き埋めになった場所を回って黙祷しに行きました。
そのうちの1箇所、遠縁の親戚夫婦が亡くなった土地に行った時、声が聴こえた気がしました。
「いらっしゃい。わざわざ来てくれたんやね。いつもありがとう。」
聞いたことのあるような声でした。
建物の梁だけが残され、それ以外は土砂で汚れた家の前で、深く、深く黙祷しました。
そして、恒例の、屋敷裏のお墓参りに行った時です。
土砂崩れが起きた場所は綺麗に工事でコンクリートで固められ、もう土砂崩れを起こさないようになっていました。
しかし、それと同時に、以前あったあの獣道も無くなっていました。
獣道があった場所も、工事されて地盤が固められていました。
あのお墓は、コンクリートに埋まってしまったのでしょうか。
または、土砂崩れで流されてしまったのでしょうか。
少しだけ寂しさを感じながらも、墓参りを終え、帰宅しました。
その後、祖父の生家の辺りでは良くないことが頻発しています。
親戚が脳卒中で倒れたのはそのすぐ後でした。
なんとか一命は取り留めましたが、以前のように身体は動かせなくなったそうです。
また、山火事が起き、広範囲が延焼する事故もありました。
極め付けに起きたのが、近辺に住んでいる住民が複数人殺害された虐殺事件です。
犯人は被害者ご家族の方の1人で、もちろん逮捕されています。
調べたらすぐに出てきますので多くは語れませんが、ニュースで速報が出た時に、親が血相を変えて方々に安否を確認していたのを覚えています。
なぜ、こうも事件が頻繁に続くようになったのかはわかりません。
しかし、わたしは、消えたあの墓が関係しているように思えて仕方がありません。
隣の家で起きた凄惨な事件以来、わたしは祖父の生家に訪問しておりません。
祖父も祖母も、免許を返納したので、以前のように頻繁に行くことはなくなったそうです。
わたしにとってあの土地は、今でも人の生死に最も近い場所です。
生きている人にも、亡くなった人にも、敬意を持って、生きていきたいと思います。