日本三大都市圏。日本の人口の半分を占めるそれらは、大阪、愛知、東京を中心として形成されています。
高い人口と工業力、商業力を有するそれらのエリアはそれだけで並みの国家の経済力をはるかに超えているそうです。
しかし、逆に言えば日本はその三大都市圏に集中しすぎているのです。
それによって四国や日本海側、東北地方などでは著しい人口減少が発生しており、その存在そのものが三大都市圏に依存しきったものになってきています。
こと東北地方は、唯一の政令指定都市である仙台市すらも、東京の経済圏の傘下にあるとされており、どうしても田舎というイメージを払拭出来ていません。
しかし、日本の歴史において京の都に匹敵して、当時の東京や愛知などの三大都市圏よりも遥かに栄えた都が、東北地方に存在していたのはご存知でしょうか。
都の名は平泉。
源平合戦においても名の知られる、奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の拠点でした。
かつては日本で最も栄えていたとされる「平泉」
記録によりますと、当時の平泉は幾多の立派な寺院が立ち並び、多くの人通りで栄えていたそうです。
黄金づくりの中尊寺金色堂を筆頭に、その様子は京の都にも劣るものではないとされていました。
さらに驚くべきことなのですが、当時の平泉を中心とした東北地方の勢力は商業を中心とした、経済圏を構成していたというのです。
かつての東北地方は冷害によって十分な農作物を育てることが出来ませんでしたからね・・・・・
しかし、商業を中心としたその経済圏は、ともすれば農業中心の当時の京の都よりもすすんでいたと言えます。
つまり、当時の東北地方は決して田舎などではなく、立派な日本の中心部の一つだったのです。
しかし、現在ではかつての栄光は影も形もありません。
平泉が存在した場所は、岩手県平泉町となっており、世界遺産にも登録された中尊寺金色堂などは残っているのですが、とてもではありませんが、三大都市圏に対抗できるような大都市ではないのです。
人口は僅か8000人足らずだそうです・・・・・
それどころか、ほとんどの人がその名を知らない地方の田舎町と化していることでしょう。
伝説によれば、奥州藤原氏が鎌倉の幕府によって滅ぼされる際に、その勢力の再興を恐れた源頼朝によって、多くの人間が殺されてしまったからだそうです。
建物は保護されましたが、人がいなければ町は機能しません。
東北地方に存在していた、商業を中心とした経済圏なども崩壊して、最早伝説になってしまっています。
それ以来、東北地方は日本の田舎として扱われており、後の時代も幾多の苦悩に見舞われきました。
しかし、それでも記録に残る平泉の繁栄が、東北地方も日本の中心部の一つであると、訴えかけてきているのです・・・・・・
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