2001年に公開された日本の長編アニメーション映画『千と千尋の神隠し』。
興行収入は316億8,000万円という大ヒット映画。
この記録は2020年12月に『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が興行収入324億7889万円となるまで20年近く超えられることのないものでした。
そんな、日本を代表する超人気映画「千と千尋の神隠し」ですが、この作品にまつわる不気味な“都市伝説”が多数あるのをご存じですか?
ここでは、その都市伝説を余すことなくご紹介したいと思います。
物語冒頭で千尋と両親は死にかけていた?
「トンネルのむこうは、不思議の町でした。」というのがこの映画のキャッチコピー。
この“不思議の町”というフレーズはいかようにも捉えることができますが、ホントのところは何だったのでしょうか。
単に不思議な町のファンタジー物語?
いえ、宮崎監督がそんな浅い設定で大作映画を制作するはずがありません。
じつはこの“不思議の町”というのは”死後の世界”だったという都市伝説が多数存在するのです。
その根拠となる部分をいくつか紹介したいと思います。
まず、冒頭のシーン。
千尋と母親は父親の運転する車に乗って引っ越し先へ向かいます。
しかし、引っ越し業者の到着時間に遅れそうな父親は猛スピードで車を運転し、道に迷ってトンネルの前にたどり着く。
実はこのとき、千尋たちの乗っている車は事故にあっているのではないかと噂があります。
実際冒頭シーンでは車で川を渡っているシーンも登場しているため、この川が三途の川なのではないかと憶測を呼んでいるのです。
この憶測を裏付けるのが、神々の存在です。
トンネルの先には八百万(やおよろず)の神様がたくさん登場します。
しかし、人間である千尋がトンネルを渡っただけで実体化した神様と接点を持つようになることは難しいような…でも、もし千尋が人間ではなく、霊だったら不可能ではないのでは?
つまり、車が交通事故に遭い、千尋たちは瀕死状態になった。いわば臨死体験をしている状態ですね。ために神様との接触が可能となったという説です。
完全に死亡しているのではないため、油屋でリンの同僚に千尋は「人の匂いがする」という指摘を受けてしまったこととも辻褄があいます。
さらに、ハクと出会ってしばらくすると透け出す千尋の体。
体が透けている人というのは大体幽霊、、ですよね。
いかがでしょうか。
物語全体を通して、宮崎駿監督からのヒントが散りばめられている!と言われると確かにそんな気も。。
千尋と両親は冒頭で死にかけていたという説はなんとなく有り得そうな気もしますが、真相やいかに。
ラストに千尋が元の世界に戻ってこれた本当の理由は?
湯婆婆(ゆばーば)は人の名前を奪って支配することができます。
ハク自身もその契約をしたことによって自分の名前を忘れ湯婆婆に支配されていました。
現実世界に戻るためには自分の名前を忘れないこと。これはハクが千尋に強く注意していることからも大事な条件であることがわかります。
しかし、トンネルの先にいるものは、湯婆婆と契約をして仕事をもらわないと動物に姿を変えさせられてしまう。
契約するということは湯婆婆に名前を取られることになる。
契約をしてもしなくても悪い方向になる究極の選択ですよね…。
しかし、千尋は湯婆婆と契約を結び、油屋で働き始めます。
ですが、ラストは自分の名前を忘れることなく無事に元の世界に戻れた。
それは、なぜなのか。
その理由は、千尋が契約時に自分の名前を間違えていたからではないかと噂されています。
湯婆婆と契約するシーンで千尋は自分の名前「荻野千尋(はぎのちひろ)」と書いていますが、よく見るとこの萩の字が間違っているのです。
萩の「火」の部分が「犬」になっています。
正式な名前ではないから湯婆婆との契約が結ばれていない。
だけど、湯婆婆から仕事を与えられたから動物にはならなかったのではないか。
千尋が10歳という年齢を考えても間違えてしまったのかなぁとも思いますが、もしわざと間違えていたとしたら相当直観力に優れた子供です。
この間違いが功を奏して千尋は湯婆婆との契約を無効にすることができ元の世界に無事戻ることができたのではないのでしょうか。
電車の乗客はなぜ黒いのか
千尋とカオナシが銭婆に会うために電車に乗るシーン。
このシーンで描かれている電車の乗客は皆黒く半透明です。
なぜこのように乗客が描かれているのか、それは電車の乗客があの世に向かう人であるからという都市伝説が存在します。
さらに、黒いということは、現世で生きることに希望を失って自殺を考えている人の霊ではないのかという噂も。
実際この電車のシーン、電車内は少し異様な空気感がありますよね。
外の景色はくっきりですごくきれいなのに、乗客の醸し出す雰囲気はなんか近寄りがたい。
この世に未練がないから、こんな雰囲気を醸し出していると考えれば納得がいきます。
そして、途中の駅で降りる乗客も描かれていますが、この乗客は自殺を思いとどまった人なのではないか。
千尋の両親が豚にされてしまった繁華街のシーンでも黒い半透明の人型のようなものが登場しましたが、このシーンの黒い物体より電車の乗客の方が人型を保っていますよね。
それは、まだ現世とのつながりが強い存在であるから、人に近い形をしているのだと思われます。
また、電車という乗り物は、あの世へ向かう手段として描かれていることが多いですよね。
例えばあの世とつながりが深い有名なアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』にも「幽霊電車」というものが存在します。
このことからも余計に電車に乗っている乗客はあの世に向かう人なのではということに納得がいきます。
一番納得がいくのが、釜爺がこの電車に乗るための切符を千尋に渡す際に告げた不気味な言葉。
「間違えるなよ。昔は戻りの電車があったんだが、近頃は行きっぱなしだ」
これは死後の世界に行くのに戻る必要がないからという意味なのではないでしょうか…。
両親が豚になってしまった本当の理由
湯婆婆が千尋の両親に対して、以下のように発言しているシーンがあります。
「ここはね、人間の来るところじゃないんだ。八百万の神様達が疲れを癒やしに来るお湯屋なんだよ。それなのにお前の親はなんだい。お客様の食べ物を豚のように食い散らして。当然の報いさ」
ここで湯婆婆は千尋の両親のことを“豚のように”と比喩で表現しています。
この言葉からも、千尋の両親の行動が湯婆婆の逆鱗に触れたことで、文字通り豚にされてしまったのかなと感じます。
しかし、なぜ豚なのか。
実は、ちゃんとこの豚になるということにはとあるメッセージが隠されているのです。
それは、バブル経済。
千尋の両親はちょうどバブル経済を謳歌していた世代だと考えられます。
実際、お母さんの着ている服やアクセサリーはブランド物っぽいし、お父さんの乗っている車はアウディA4。
まさしくバブル時代を謳歌していた人たちの持ち物ですよね。
それに比べて千尋はすごく地味な格好をしているのです。
ここで、両親と千尋世代でギャップがあることがわかると思います。
バブル時代に何でも手に入れていた両親は、その当時培ってきた考えから、不思議な場所に来ても目の前にあるおいしそうな料理に何も感じることなく欲望のままに手を出します。
そして自制も出来ずにただただむさぼり続ける。
すると、みるみるうちに豚に変わってしまうのです。
自分が豚に変えられていることにも気が付かずに食らいついている、このことで両親はもともと喰らう側であったのに、家畜である豚に変えられたことで「喰らいつくされる側」になったという痛烈な批判が込められているのです。
さらに、バブル世代のしりぬぐいをしていたのが、その子供たちである千尋たち世代。
この映画でも、千尋は両親が豚になったことのしりぬぐいをするために働く必要がでてきます。
千と千尋の神隠しは、バブル時代のように欲にまみれた生き方をすると喰らいつくされる側になってしまうということ、そしてその世代を生きた大人たちを千尋が生きる力を得たことにより乗り越えるという意味が隠されているのです。
千尋はトンネルの向こうの世界でどれくらいの時間を過ごした?
ラストシーンでトンネルの先から戻ってきた千尋と両親。
その時にトンネルの先に行く前に乗っていた車は、大量の落ち葉に覆われています。
さらに、トンネルの前には印象的な石像がありましたが、この石像も苔だらけで顔が確認できないほどに変化している。
ですが、葉っぱはトンネルの先に行った時と同じく緑色です。
紅葉などはしていないうえに、千尋たちは行ったときと同じ服装で戻ってきていますが、特にさむがっている様子も見られないため、気温が変わるほどの時間の経過はなさそう。
さらに、車のバッテリーは上がっていません。
なぜバッテリーに着目したかというと、バッテリーは車を1年放置すると上がると言われているためです。
だから、季節が同じでも年単位で時間経過したわけではないということがわかります。
劇中では時間のことについて説明はないのですが、千尋たちがトンネルの先に行っていた時間が数時間の出来事ではなさそうですが、ものすごく時間が経っていたわけでもなさそう。
では、一体どれくらい時間が経っているの?という疑問の前に、そもそも、トンネルの向こうの世界とこちらの世界では時間軸は一緒なのかという疑問もわいてきます。
浦島太郎のお話からもわかりますが不思議な世界の時間軸と我々が住む世界の時間軸が同じということがない場合もあるので何とも言えません。
ですが、時間描写がわかるものがありました。
それは、月の満ち欠け。
これをもとに予測してみたいと思います。
腐れ神が登場した際に映し出された夜空には満月が浮かんでいました。
その後、この映画の名物シーンであるハクと千尋が夜空を飛ぶシーン。
ここでの月は上弦の月(じょうげんのつき)が描かれています。
月の満ち欠けは満月→下弦の月→新月→上弦の月の順番で起こり、さらには満月から上弦の月までは3週間ほどかかります。
このことから、最低3週間千尋たちはトンネルの向こうの世界に行っていたことが予想できます。
もし、映画の最後に千尋のお母さんが
「 引越しのトラック、もう着いちゃってるわよ」
といったセリフの続きが描かれていたらこの時間軸についてははっきりとわかったと思いますが、こういったことを明確にしないからこそ、千尋たちが本当に“不思議の町”にいたんだなということがよりわかるようになっているような気がします。
なぜ千尋はラストで湯婆婆からの質問に正解でき、戻ってこれたのか。
ラストシーンで、千尋は湯婆婆から大量の豚の中から両親を見つければ、現世に返すと言われます。
無理難題を言われたと見ている側としては感じますが、千尋は、この中に自分の両親はいないとすぐに見分けがつくのです。
いくら実の両親といえど、豚に変えられてしまっては見分けが付くはずもない…。
豚になりかけのころには人間であった頃の特徴はありましたが、ラストシーンに写る豚にはその面影すらありません。
では、どうして千尋は自分の両親がいないことを見抜けたのか、諸説あるのでその理由とともにあげてみましょう。
苦団子(にがだんご)の力によって魔力ができたから。
千尋が油屋で働いていたとき、オクサレ様という神様がおとずれたシーンがあります。
名前の通り、匂いがきつく泥まみれのような姿で現れたオクサレ様。
千尋以外の従業員は、オクサレ様に対して嫌な顔をしていますが、千尋は献身的にもてなし、体に着いた泥を洗い流します。
すると、泥の中から河の神が現れ、お礼と言って千尋は不思議なお団子をもらいます。
このお団子は、暴走し手に負えなくなったカオナシを元の姿に戻したり、銭婆の攻撃により瀕死の状態になったハクを治したり、と万能なことがわかるシーンが数々あります。
このことからも、魔力があることは間違いないことがわかります。
一説には、呪いを解く効果があるのではないかともいわれているこのお団子。
そのお団子を千尋自身もかじってみたシーンがあります。
千尋はすごく苦い顔をしていましたが、カオナシやハクに現れたような効果は何もありませんでした。
しかし、実はお団子をかじったことによって千尋にも魔力が宿ったことにより、湯婆婆が両親にかけた呪いを解くことができ、豚を判別することができたのではないかという説。
銭婆にもらった髪留めの魔力
自分の元を訪れた千尋に、銭婆は髪留めを渡します。
銭婆は湯婆婆と双子であることから相手のこともよくわかっている存在。
そのため、湯婆婆が千尋に現実世界に戻るために試練を与えるのではないかと銭婆は考えました。
だから、もし千尋に何かあったとき彼女を助けられるよう髪留めに魔力を込めていた。
実際、この髪留めに救われたような描写がありました。
最後の橋を渡るシーンで「振り返ってはいけないよ」とハクに言われた千尋が、一度振り返りそうになってしまう。
その時、この髪留めが光ったおかげで千尋は振り返ることをせずに現実世界に戻ることができました。
また、湯婆婆はかなり魔力の高いキャラクターとして描かれていますが、銭婆はそれに匹敵する魔力を持っています。
どのような魔力を込めたか銭婆は話していませんでしたが、もし、湯婆婆の魔力に対抗する手段として自身の魔力を込めた髪留めを千尋に渡していたのだとしたら、ラストシーンは、銭婆の思惑通り、湯婆婆が千尋に試練を与ることとなった。
そのとき、銭婆の魔力が働いたことにより、千尋は両親がいないことを見抜くことができたのではないかという説。
千尋が経験を積んだから
この件に関して、宮崎駿監督はインタビューで以下の様に答えています。
「最後の豚の集団をみて、千尋がお父さんとお母さんがそこにいないとなぜわかったのか説明していない。理論としておかしいと、説明を求めるタイプの人たちがいる。
でも、僕はそういうのを大事だと思っていないから。これだけ経験を経てきた千尋は両親がいないことがわかる。なぜわかるか、でもわかるのが人生ですよ。それしかないんですよ。
そんなにここが欠けていて、あそこが欠けていてって、指摘ができるなら、観客が自分で埋めればいいんだから。僕はそんなところに無駄な時間を費やしたくないんですよ」
この言葉が全てを物語っていますね。
わずかな時間ですが、10歳の少女がなかなか得ることがない経験を千尋はこの映画の中で体験しています。
そのとき培った知恵や経験を使い、千尋は両親がいないことを見抜いた。
『千と千尋の神隠し』は宮崎監督が10歳の子どもを喜ばせたいという思いの元に作られた映画なので、千尋と同い年の子に対する様々なメッセージが込められており、このラストのシーンもその一つなのではないかと考えられます。
カオナシの正体とモデル
千と千尋の神隠しに登場するキャラクターで最も有名なキャラクターと言っても過言ではないのが、カオナシ。
しかし、このカオナシ制作当初は重要キャラではなく、「ハクと千尋が油屋に向かう際、橋の上にただ立っている存在」でしかなかったそう。
それが制作が進むにつれ「時間の都合でストーリーを再構成したとき、画面の隅にいるだけの名無しのキャラクターに”カオナシ”という名前を与えて後半の主役にした」という宮崎監督の意向もあり重要なキャラクターとなっていたのがカオナシ。
お客と間違え千尋は油屋にカオナシを招き入れますが千尋以外の従業員はカオナシのことをお客であるとは考えていない様子。
ですが、カオナシが手から金を出すようになると従業員たちの態度は一変します。
欲にまみれた従業員たちはカオナシを手厚くもてなし始める。
そして贅の限りを尽くしたカオナシは肥大化して膨れ上がり暴走をはじめます。
この姿から、カオナシは「欲望」を表しているのではないかと言われています。
もう一つカオナシの正体について今どきの若者ではないかという説もあります。
カオナシは「ア」とか「エ」という言葉しか発せず人とコミュニケーションが取れません。
金をばらまいたことからお金で解決しようとする特徴もあります。
さらに、自分を笑ったという嫌な思いをぶちまけながら暴れるシーンもあります。
この、コミュニケーション能力が低い、お金で解決しようとする、嫌なことがあると暴れるという特徴から今どきの若者の姿を象徴しているのではないかともいわれています。
また、カオナシと検索すると「サタン」という文字が出てきます。
銭婆の元へ向かう電車に乗る千尋とカオナシ。
車窓からは色んな景色が見えますが、そこに「サタン」という文字が一瞬浮かび上がることがあるようで、このことがカオナシの正体を暗に案じているという話からカオナシ=サタンという説が出来上がったようです。
カオナシについて憶測がとびかっていますが、映画のパンフレットのキャラクター紹介には以下のように書かれていました。
「湯屋のある世界とは別の場所からやってきた謎の男。己という物を持たない悲しい存在」
宮崎監督自身はカオナシについて「みんなの中にカオナシがいる」と発言していることもあり、カオナシは人間そのものを表しているのかもしれません。
そして、このカオナシにはモデルがいると言われています。
それが、『借りぐらしのアリエッティ』を手がけた米林昌宏監督。
しかし、この話は、後付けであり宮崎監督がカオナシを書いた際に、米林監督にそっくりじゃないかと発言したことから広まったそうです。
そのため、実際は米林監督をモデルとしてつくられたキャラクターではないそうです。
油屋と湯女リンの正体
千尋が働く油屋は遊郭であるという噂を聞いたことはありませんか?
実際、宮崎監督も雑誌「プレミア日本版」2001年9月号でこう発言しています。
「今の世界として描くには何がいちばんふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか」「今の女性たちは売春婦が似合いそうな人がものすごく増えている」
さらに、油屋のように大浴場がなく、個室で区切られた店内の様子についても、「いかがわしい」ことをするためだとも答えています。
このことからも、油屋は昔に日本存在していた湯屋や遊郭がモデルとなって描かれている場所だということがわかります。
では、なぜ遊郭をモデルとしたのか。
それは、鈴木プロデューサーが宮崎監督に話したあることがきっかけとなったそうです。
鈴木プロデューサーは、「人とちゃんと挨拶ができないような女の子がキャバクラで働くことで、心を開く訓練になることがあるそうですよ」と宮崎監督に話したことがあり、このことがひらめきにつながったのだとか。
アカデミー賞受賞後、宮崎監督は千と千尋の話は、鈴木プロデューサーとしたキャバクラの話から始まっていると打ち明けていました。
そのため、キャバクラで得た着想から、千尋が油屋で神々に接待していくうちに、生きる力を取り戻していくというストーリーを思いついたのだとか。
この油屋で千尋の面倒を見てくれた人物がいますよね。
そう、リンという女性。
かなり重要なキャラクターであるにも関わらず、本編ではこのリンの正体について詳しく語られていません。
ですが、映画のパンフレットではリンのことを「人間」と紹介しているのです。
14歳くらいで千尋より年上とされているリン、見た目も人間そのものです。
しかし、彼女の好物は焼きイモリだったり、匂いで千尋が人間であることを勘付いたりと人間離れしている部分もありますよね。
こうみると、本当に人間なのかと少し疑ってしまいます。
さらに、リンが人間であるという説を揺るがしたのが、スタジオジブリが公開したラフ画の存在。
こちらにはリンの名前の横に白狐という文字が書かれているのです。
確かに、リンは狐顔と言えば狐顔のキャラクターですし、リン以外の従業員は皆カエルやナメクジが人間に化けている姿であるため、リンは白狐であり、他の従業員と同じく人間に化けているといった方が納得できるのではないでしょうか。
このことから、リンの正体は白狐で、人間に化けているということが一番しっくりきそうな説ですね。
『銀河鉄道の夜』がモデルになったシーンがある?
『ジブリの森とポニョの海』という本で宮崎監督は千と千尋の神隠しにどうしても入れたいシーンがあったことを以下のように話されています。
「千が電車に乗るシーンがあるでしょ。
なぜ、電車に乗せたかったかというと、電車の中で寝ちゃうシーンを入れたかったんです。ハッと目が覚めると、いつのまにか夜になって、周囲が暗くなって、影しか見えないような暗い街の広場が窓の下をよぎっていく。
電車が駅を離れたところなんです。いったい何番目の駅なのか、自分がどこにいるのかわからなくなっていて、あわてて立ち上がって外を見ると、町が闇の中に消えていく。
不安になって、電車の車掌室へ駆けていって、ドアをたたくけれど、返事がない。
勇気を振り絞って、扉を開けてみると、真っ暗な空に街の光が闇の中の星雲のように浮いていて、しかも寝かせたガラスに描いたように平らなやつが、ゆっくりと回りながら遠ざかっていく。それは『銀河鉄道の夜』の僕のイメージなんですよ。
それを、入れたくて、入れたくて、入れたくて、たまらないんですけど、ストーリーボードを描いていくと、どうしても入らない。
なんとかして入れたくて、なんせ映像を挟み込むだけなんだから、ガバッと勇気を出して入れてしまえばいいんだけど、入らない。どーうやっても入らない。結局、いちばんやりたかったシーンを外したんです。
その映像を入れたいためにつくりあげたシーンだったのに、結局、やりたいことが入らない。
これは違うジグソーパズルのピースだったんだな、と気がつくんです」
このインタビューからわかるように千尋やカオナシが銭婆の家に向かうために乗った海原電鉄の電車は、宮崎監督が銀河鉄道の夜をイメージして作られたシーンです。
確かに2つの作品を並べてみると似ているなというのがよくわかるシーンとなっています。
画像を見比べてみてもよくわかると思いますが、確かによく似ていますよね。
銀河鉄道の夜の電車シーンに千尋とカオナシを座らせても、また逆に千と千尋の電車に、ジョバンニを座らせても違和感ないなと思います。
窓ガラスに風景というか映像が映し出されるというところもオマージュっぽく感じます。
ススワタリとまっくろくろすけのつながりってあるの?
ジブリの象徴ともいえるキャラクターのまっくろくろすけ。
このキャラクターは、映画『となりのトトロ』に登場します。
特徴は、真っ黒い毛玉のような形状と目玉が2つというもの。
このキャラクターとそっくりなキャラクターが、なんと千と千尋の神隠しにも登場します。
釜爺の元で働いているススワタリと呼ばれるキャラクターですが、見た目がまっくろくろすけそのもの。
ただ、まっくろくろすけと違いススワタリには手足がはえています。
それ以外は、一緒。
見た目が少し違うため、似ているけど別物?と思うこの2つのキャラクターですが、実は同じものだそうです。
CD「となりのトトロサウンドトラック集」には「メイとすすわたり」という楽曲があるのをご存じですか?
このことからも、となりのトトロに登場するまっくろくろすけと呼ばれる存在も実は、ススワタリということがわかります。
なぜ、まっくろくろすけという呼び名で呼ばれるのかというと、トトロの世界では、メイとさつきが“まっくろくろすけ”とススワタリに名付けたために呼び名が違ってしまったのです。
実際、カンタのおばあちゃんはまっくろくろすけのことを「ススワタリ」とちゃんと読んでいるシーンがあります。
なので、まっくろくろすけ=ススワタリであるということ。
しかし、同じものなのに、何で形状が違うの?と疑問が出てきますよね。
その理由は、働いているかいないかだそうです。
釜爺のもとにいるススワタリは金平糖をもらいながら彼の手伝いをしています。
そう、千と千尋に登場するススワタリは働いています。
仕事をするためには、手足が必要となった
だから、手足を生やして仕事ができるように進化したのが千と千尋のススワタリ。
さらに、金平糖に群がったり、喧嘩をしたりと個々に性格があるというか自我があるように描かれています。
一方、となりのトトロに登場するまっくろくろすけは屋根裏に住んで何もしない存在です。
実はこちらの姿の方がススワタリの本来の姿らしいのです。
手足はなく、あの特徴的な泣き声を発するだけで、騒ぎ立てたりすることもなくフワフワ浮かんでいるのが本来のススワタリの姿。
環境によって変化するということは、もしかしたら今後、環境の違いによってさらに形状の違うススワタリが登場したりすることもあるのかもしれないですね。
耳をすませばと千と千尋の神隠しのつながりとは?
千と千尋の神隠しには元ネタとなった本があるのをご存じですか?
その本は柏葉幸子さん作の『霧のむこうのふしぎな町』。
本来は『魔女の宅急便』と同じように、原作本をそのまま映画にしようと考えていたそうです。
しかし、著作権問題が発生し、『霧のむこうのふしぎな町』を映画かするのが難しいということで断念。
じゃあ、この本の世界観を生かして映画を作ろうということになり、千と千尋の神隠しが誕生となりました。
この元ネタとなった『霧のむこうのふしぎな町』が『耳をすませば』と千と千尋の神隠しにつながりを持たせています。
耳をすませばで天沢聖司が、図書館で本を読んでいるシーンがありますが、このとき彼が読んでいるのが『霧のむこうのふしぎな町』。
このようなつながりが生まれたというのは、『霧のむこうのふしぎな町』はジブリのスタッフさんで愛読している人が多く、思い入れもある本だからこそ2つの映画に共通することとなったのではないのでしょうか。
この他にもこの図書館にはトトロと書かれた本が登場したりと、小ネタがありますが、ジブリ作品にはこういった遊び心も多いので細かく見ていると面白い発見をすることができるのも魅力です。
実は幻のラストシーンがあった?
映画を作成するには、シナリオは当然必要ですよね。
ですが、宮崎監督は、長編映画を作る際に事前にシナリオを用意しないそうです。
どういう風に作っていくのかというと、絵コンテを描きながらストーリーを進めていくというもの。
だから、監督自身出来上がるまで作品の全容を知らないのだそう。
面白い作り方だなと思いますが、天才的すぎますよね。
さすが監督という作り方。
全体像をわからずに作っているため、上映時間の関係などが理由でカットせざるを得なくなったなど、ジブリ作品には幻のラストシーンや幻のシーンというものが多いのも特徴です。
この『千と千尋の神隠し』にも、幻のラストシーンが存在します。
千と千尋の神隠しを作成中のある日の話です。
この日は休日ということもあって、スタッフの多数は出勤していなかったそうです。
それなのに、鈴木プロデューサー、作画監督の安藤さん、美術監督の武重さんと制作担当者がたまたま居合わせるという偶然が重なった日でもありました。
すると、宮崎監督はホワイトボードに絵を描きながら、千と千尋の神隠しの映画後半のストーリーを説明し始めました。
この時宮崎監督が描いたのが、千尋は湯屋で働きながら湯婆婆を倒すというストーリー。
湯婆婆をなんとか倒した千尋ですが、湯婆婆の背後には銭婆というさらに強力な黒幕がいました。
銭婆を倒すためハクの力を借りて、無事に戦いが終わり、千尋は名前を取り返して両親を人間に戻すというものだったそうです。
しかし、この案で映画を作成すると上映時間が3時間を超えてしまうといことで、このラストシーンは破棄されたのだとか。
銭婆が千尋の敵というパターンもあったのですね。
千と千尋の神隠しは大好きな作品ですが、銭婆と湯婆婆と戦うハクと千尋の姿も見てみたかったなとも思ってしまいます。
もう一つ、千と千尋の神隠しには噂されているラストシーンがあります。
2014年「千と千尋の神隠し」が地上波で放送された際に2ちゃんねるには、
「多くの人はトンネルから抜けだし髪留めがキラリと光り車を走らせて物語は終わり。だと思っているでしょうが本来この後には続きが存在します。
ちなみに映像化、アフレコもされており公開当時映画館でも一部で実際に流されていました。
現在何故以下のラストシーンが無かったかのように扱われているかは謎である
・千尋が車の中で来る前に着けていた髪留めが銭婆からもらった髪留めに変わっていることに気が付き不思議がる(何故かは覚えていない)
・新居に向かう途中、丘から引っ越し業者が既に到着しているのが見え母親が「もう業者さん来ちゃってるじゃないのー」と父親に怒る
・新居に到着後、引っ越し業者の1人から「遅れられると困りますよー」と注意される
・千尋が1人何気なく新居の周りを歩いていると短い橋の架かった緑ある小川があることに気付く
・橋から川を眺めていると千尋は一瞬ハッと悟ったかのような状態になりこの川がハクの生まれ変わり、新たな住み処であることに気付いた?かのように意味深に物語が終わる
以上が千と千尋の神隠し本来のラストシーンです。今回の地上波放送でもこのラストシーンが流れることはおそらく無いでしょう」
という書きこみがされました。
この書きこみに記載されているのが、幻のエンディングと噂されているものです。
幻のエンディングを見た!という人はこの書きこみ以外にもあり、それらの情報をまとめると、次のことがわかります。
幻のエンディングというのは劇場でのみ流れ、流れた期間は公開から1週間だけであったというもの。
この幻のエンディングを見た人が地上波で流された千と千尋の神隠しを見た時に、記憶とは違うエンディングとなっていたため違和感を覚え、声を上げた。
そして、この書きこみの内容がしっかりしていることや、同じく地上波と違うエンディングを見たという声が多数上がったことなどから信ぴょう性が増し、“幻”と言われるエンディングになったのだとか。
この他にも、VHS版のラストシーンが幻のエンディングである、という噂もありましたが、実際は地上波と同じエンディングということが証明されています。
そのためこのエンディングについて証明する手段がないということ。
ないことをないと証明するのは難しいとよく聞きますが、1週間のみ劇場で公開されたという話を確かめることは非常に難しそう。
引っ越し業者のシーンについては絵コンテを作成していたという話もあるので、こういった事実にいろいろと尾ひれがついてこういう話になったのかなとも感じます。
しかし、劇場公開1週間だけ幻のエンディングが流れたという話はどうやっても証明することはできなさそうなので本当に流れたのかもしれないですよね!
不思議な町を描いた千と千尋の神隠しならありえなくもなさそうなまさしく、都市伝説的な話です。
まとめ
ここまで、千と千尋の神隠しにまつわる都市伝説を紹介しましたが、いかがでしょうか?
信ぴょう性のあるものから、噂まで様々な都市伝説がありますが、こういう話を知ったうえでまたこの映画を見ると、見方が変わっておもしろくなりますよね。
また、様々な見方ができるからこそ人によって感想や解釈もかわってくる…何度見ても見飽きることのない映画ですよね。
違った視点でもう一度見直してみると新たな発見があるかもしれないので、ぜひ「千と千尋の神隠し」を楽しんでください。