【投稿者:k-14さん】
私はフランスの地方都市で暮らしています。文中に出てくる名前や地名は全て仮名ですが、当事者である夫から聞いた話を、できるだけ忠実に再現しています。
1.条件の良すぎる寮
数年前、夫は車で2時間以上かかる「M」という地域で、数か月の単身赴任をすることになりました。
小さな町なので下宿探しは難航するだろうと思っていた所、地元情報サイトで単身者寮があっさりみつかりました。
専用バスルーム・家具付きの個室で家賃150ユーロ(約1万8000円)という破格の値段です。
下見に行った夫は、さらに仰天しました。
寮とされていた建物は、古い神学校だったのです。
旧市街の一画に、重厚な建物がそびえていました。
地元の教会団体で秘書をしているという中年女性が、夫を出迎えました。
「ここは元々、リタイアした聖職者のための寮だったんですが、老朽化が進んだので改装工事をしているんです。
今後は一般の方にも入居スペースを開放する方針で、アンリさん(夫)がそのさきがけなんですよ。」
確かに、中庭には工事車両や作業用具などが置いてあります。夫の入居する棟は出来上がっていましたが、聖職者たちの棟はまだ工事中でした。
秘書「高齢化対策でエレベーターや手すりなどを付ける分、作業が長引いてまして。ブラザーたちはいま別の寮に移っているのですが、まだ当分は帰ってこれない見込みなんです。」
申し分のない条件だったので、夫はすぐに入居を申し込みました。
秘書は喜んで書類やカギを用意します。その際、「ただ、一つだけ」と言いました。
「改修して見かけはきれいなんですけど、なんせ200年越えの古い建物ですから。色々がたつく音がしてうるさいかもしれませんが、ご了承くださいね。」
その言葉を額面通り受け取り、それはそうでしょうねとうなづいて、夫は鍵を受け取ったのです。
夫は簡単に単身赴任の引っ越しを済ませました。
日曜夜に寮に入り、週日はここで寝起きして赴任先で勤務、金曜夜に自宅に帰って週末を過ごす…という生活が始まりました。
最初の夜、床に就いてすぐに、廊下を駆け抜ける足音を聞きました。
どたどたどたっ。
大柄な男性が歩いていったようでしたが、夫は気に留めず、すぐに眠り込んでしまいました。
ところがそれ以降も、毎日決まって夜中に足音が廊下を駆け抜けるのです。
他の入居者だろうと思いましたが、不思議と寮内では誰とも会いません。
共用冷蔵庫に入っているのも自分の食料だけです。妙だな、と思いつつ週末を迎えようとした金曜日。
例の秘書と、若い女性二人が共用スペースにいました。
「あっ、アンリさん。今日から入居されるお嬢さん方ですよ。」
紹介された後、夫は秘書に聞きました。
「あともう一人、先に入居してる人がいるんですよね?毎晩足音を聞くんですが、まだお目にかかっていなくて。」すると秘書は怪訝な顔をします。
「…アンリさん、あなたは一般棟の入居一番のりだったんです。今週、他には誰もいなかったはずですが…?」
夫はここでも、深く考えませんでした。
「ああ、じゃあ工事の人が遅くまで作業してたんですね。」
こうして夫の単身赴任第一週は終了し、自宅に帰って週末を過ごしました。
日曜夜に再び寮に戻った時、夫の車の前を大きなクラシックカーが通りました。
60年代もののぴかぴかのジャガーで、あまりにかっこいいので夫は見とれてしまいました。
その車は徐行して、旧神学校の隣にある大きな屋敷に入っていきました。
翌週、中庭で工事作業員に出会った夫は、ずいぶん夜遅くまで作業をしているのですね、と話しかけました。するとその工事監督は首をかしげて、
「ブラック企業じゃあるまいし、夕方5時には切り上げてますよ?」と言います。
そんなはずはない、毎晩廊下を歩いているでしょう?とただすと、「そんなことは絶対ないです。確かに、ここの現場はトラブルが多くってずいぶん遅れてはいるけど、我々は精一杯やってるんです」と、何やら自己弁護をするような形になってきました。
「電気系統がおかしくなってるのか、どうしても夜中に現場の明かりがついてしまうって苦情は、秘書さんから何度も聞きました。それに、先週は新しく取り付けたエレベーターの中に作業員が3時間ほど閉じ込められて、難儀もしましたよ。でも本当に、うちは手を抜いたりせずにきちんとチェックをしているんです」
自身も建築関連の仕事をしている夫には、監督がまじめに言っている事がよくわかりました。
では、あの夜中の足音は一体何なのでしょうか?
ふいに空き巣の可能性を感じた夫は、その夜遅く、足音が聞こえてくるのを自室のドアの前で待ち構えていました。
どたっ、どたどたどたっ。
相変わらず、ごついブーツをはいたような重い足音が勢いよく近づいてきます。
まさに自室の前に来た!という瞬間で、夫は勢いよくドアをあけました。
「誰だ!」
真っ暗な廊下に、一瞬遅れて自動感知の明かりがつきました。
そしてそこには、誰もいなかったのです。
2.度重なる奇妙な現象
この時を境に、夫は足音に対して「そっちの世界」の性質を感じるようになりました。
極力気にしないようにして夜を迎えるのですが、やはり毎晩のように廊下を駆け抜ける音が聞こえます。
また耳をすませていると、遠くの方から別の騒音も聞こえるようになりました。
男性の声で「打て―!」といった号令があり、直後大砲を打つようなドカンドカン、という爆発や発砲音がきこえるのです。
最初は女の子が戦争映画でも見ているのかと思い聞いてみましたが、そうではありませんでした。
逆に、「アンリ、夜中に叫んでいるのってあなたじゃないよね?」と聞き返される始末です。
こうして夫は、足音や大砲騒音のせいでだんだんと寝不足がちになっていき、慣れない赴任先のストレスも相まって、慢性的な疲労を抱えるようになりました。
もうすぐ夜中、と思うと部屋の中の空気がずっしりと重くなり、息苦しさを覚えるようになります。
足音が聞こえるとき、何度かドアを開けてみましたが、やはり誰の姿も見当たりませんでした。
気の休まらないまま自宅で週末を過ごし、日曜の夜に寮に帰ると、決まってあのぴかぴかのジャガーが前を走っており、手前のお屋敷に入っていきました。
夫は一度だけ、その車から初老の男性が降り立ったのを見ました。レトロなトレンチコートを着たひげの男性で、夫と目が合うと「やあ」という風に片手をあげた、という事です。
違和感のある現象は続きました。
インターンのクロエは「改修中の棟のライトが明るくて、鎧戸を通して光が入ってくるから、よく眠れない」としょっちゅうこぼしていましたし、
専門学校生のエミリーは「作り置きのタッパーが、とんでもないところにしまわれている。誰かのいたずらなの?」と、台所で泣きそうな顔をしていました。
また、廊下や部屋の各所につけてある換気口から、時折妙な音が聞こえてくることもありました。
クロエとエミリーは、「空気と一緒に、遠いところでやってる教会ミサの文句みたいなのが聞こえてくるんだけど…」と気持ち悪がります。
ですが夫には教会ミサというより、換気口が何かを『ささやいて』いるように思えてなりませんでした。
何をしゃべっているのかはわかりませんが、やはり人語なのです。
耳をすませて聞き入ると、時間を忘れてしまいそうになる危うい感覚に陥ることもありました。
やがて、また新しく入居者が増えました。ケヴィンという若い会社員で、夫の隣室に住み始めました。
「引っ越し荷物を入れてて気が付いたんだけど、屋根裏には何があるの?」
夫とケヴィンが使っているフロアからは、梯子段で屋根裏へのぼることができるのですが、ここには誰も足を踏み入れたことがありませんでした。
「別に立ち入り禁止ってわけじゃないよね。一度みんなで行ってみない?」クロエが提案し、入居者4人はぞろぞろと梯子段を上りました。
そこはほこりっぽい空間で、古い家財道具や段ボール箱などが壁にそって乱雑に積み上げられていました。
その中央にぽつんと、これまた古びた木製のいすが、一脚だけ置いてありました。
この屋根裏を見て、夫は内心で『屋根裏に入り込んだリスか野良猫が、夜中に音を立てていたのかもしれない。』と思い、少し安心したのだそうです。そこで何気なく「この椅子、なんで真ん中に置いてあるんだろうね。」と言い、他のガラクタと一緒に壁際に寄せて置きました。
その夜。
夜中になっても、足音は聞こえてきませんでした。
代わりに、ギギギー、ギギ…と、何かを引きずるような耳障りな音が響いてきたのです。
夫は廊下に出てみました。隣室の扉も開いて、ケヴィンが不安そうな顔で夫を見ます。
「この音は…屋根裏じゃない?」
そこで、二人は足音を忍ばせて梯子段をのぼりました。
ケヴィンがスマホの明かりを照らしてみましたが、暗い屋根裏は静まり返っていて、不審者や動物の姿は見当たりません。
しかし、その部屋の中心には、夫が部屋の隅に寄せておいたはずの椅子がぽつんと置いてありました。
ここが私の立ち位置なのよ、あなたたち文句ある?と言わんばかりの存在感で。
「・・・・・・。」
その日を境に、廊下を駆け抜ける足音と大砲発射音、ミサのささやきに加え、屋根裏を椅子が徘徊する音が夜な夜な聞こえるようになりました。
どたどたどた、ギーギー、打てー・ドカーン、さわさわさわ…。
夫の寝不足と慢性疲労はひどくなり、「もうだめだ」とギブアップ。
一日往復4時間以上をかけてでも、自宅から赴任先に通った方がましだ!として、早々に下宿を引き払うことにしたのです。
3.ブラザーたちの帰還
しばらくしてから、鍵を返却するために夫が最後に寮に出向くと、共用スペースに数人のおじいさんたちが座っておしゃべりに興じているところでした。
一緒にいた秘書が、「工事がようやく終了したので、ブラザーたちが帰ってきたんです。」と言います。
誘われて一緒にコーヒーを飲みましたが、どのブラザーたちも元いた場所に帰ることができて嬉しそうでした。
その中の一人が、唐突に夫に聞きました。
「で、あなた、夜はさんざん悩まされたんじゃないですか?」
「えっ?」
「大昔、私が初めてここに来たばかりの頃もね、ずいぶんとドンパチやられてうるさかったもんです。」
「あの…」
「あ、幽霊ですよ」聖職者なのにしれっと言い切ったそのブラザーは、キッチンでコーヒーの用意をしている秘書を気遣ってか、声を落としてこう続けました。
「後でインターネットでもご覧になれば詳しくわかるでしょうけどね。ここの建物っていうのは始めは神学校でしたが、ナポレオン3世のころには軍の訓練所として使われていた時期があったんです。それの名残なのか、しょっちゅう戦争みたいなドンパチが聞こえてくるんです。兵隊っぽい足音が聞こえることもよくあったなあ。ま、最後には私も慣れたんだか、耳が遠くなったんだかして気にならなくなりましたがな。ワハハハハ」
最後にお暇を告げて車に乗り込もうとすると、そのブラザーが外に出て見送ろうとしてくれました。
ふと思いついて、夫は何気なく聞いてみました。
「ああ、そういえば隣にあるお屋敷には、どんな方が住んでいるんです?毎週、素敵なジャガーで入ってくる初老の紳士を見かけたんですが…」
ブラザーはきょとんとして「隣?あの家はこの神学校の所有物ですが…50年来ほど空き家のはずですよ?」
行ってみましょ、とひょいひょい先導するのでついていくと、門錠は固く閉ざされており、その隙間から見えるお屋敷の鎧戸・雨戸は全て閉まっています。
外から見ただけでも、相当に朽ち果てた廃墟状態であるとわかりました。
では自分がみたあの車と紳士、それを出迎えるように煌々とついていた明かりは何だったのか…。
夫は呆然としてしまいました。
ブラザーはそんな夫を見て、優しく言いました。
「私はこの家や、住んでいた人については全く知らないんですが…。あなた、色々ご覧になったようですな。」
……
騒音は建物についた幽霊の仕業なのでしょうが、隣のお屋敷とジャガーについては、また別物のようで私は不安になります。
それと言うのも、夫はこれまでに「別の時代」を見てしまった事が何度かありました。(もちろん本人は全く意図せずに、です)
見るだけならまだいいのですが、そのうち何かのはずみで帰ってこれなくなる時がくるのでは…という心配が、どうしても頭から離れません。
……
やがて単身赴任が終わろうとする頃、夫はケヴィン君からSMSを受け取りました。
「アンリ、きみと入れ違いにブラザーたちが寮に帰ってきてから、変な物音はぱったりしなくなったよ。明かりがつきっぱなしになることもなくなったし、エミリーのごはんも消えなくなった。僕そっとのぞいたんだけど、あの屋根裏の椅子はずっと壁際においてあるよ。」
まるで、建物が聖職者たちの帰りを待ちわびて、あんな騒ぎを引き起こしていたみたいだ…と夫は言いました。
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