日本三大怨霊、彼らはみな平安時代を生きた人間でした。
生涯を通じて途方もない苦しみと図れり知れない絶望を味わった事によって、世界を憎む怨霊と化したのです。
菅原道真、平将門そして崇徳院。
このページでは、彼らの半生を振り返ると共に、いかにして日本三大怨霊になってしまったのかを読み解いていきます。
彼らから放たれる驚愕の呪いにも注目してご覧ください。
日本三大怨霊とは?
日本三大怨霊とは一般に菅原道真・平将門・崇徳院を指す言葉である。
wikipediaより引用
菅原道真・平将門・崇徳院が三大怨霊とみなされるようになった背景には、江戸時代における読本や歌舞伎などが大きく影響を与えているとしている。
日本三大怨霊の一人「菅原道真」の波乱に満ちた人生
日本三大怨霊の始まりとされているのが、菅原道真公です。
彼は9世紀の人間で、903年にその波乱と絶望に満ちた生涯を終えました。
死後に発生した、彼の凄まじい呪いから後に続く平将門公及び崇徳上皇及びと共に、日本三大怨霊と並び称されるようになりました。
菅原道真公と言えば、学問の神としてあがめられていることでも有名ですが、その神の称号すらも彼の呪いを鎮めるためのもの。
つまりは気休めのために与えられたものにすぎないのです。
彼の生涯はそれほどまでに、激しい絶望と悲しみに満ちていたのです。
生涯の前半において、彼は日本の政治の中心にいました。
中国への遣唐使を中止するなど、国家の方針を決められるほどの権力を、彼は持っていました。
しかし、それほどの権力の絶頂から落ちたとき、菅原道真公は凄まじい絶望に襲われたのです。
菅原道真公のことを疎ましく思う貴族たちによって無実の罪を着せられて、京都から今の九州太宰府市へと左遷されました。
元より健康に難があったとされている彼にとって、それはどれほどの過酷な道のりだったでしょうか・・・・・
菅原道真公はそこで必死に無実を訴えましたが、聞き入れられず自分を陥れた人間たちを怨み呪いながら死んでいったのです。
菅原道真の壮絶なる怨みが日本中に災いをもたらした
そしてその死後、菅原道真公の呪いは陥れた貴族たちを襲いました。
皆が皆、怪奇で無残な死にざまを迎えました。
あるものは若くして病死し、あるものは雷に打たれて焼け死に、あるものは精神錯乱状態となって狂死し、あるものは底なし沼に飲まれて死んでしまったそうです。
あまつさえ、当時の日本そのものが嵐や洪水、疫病など多くの人間を巻き込む災厄に見舞われました。
そんな菅原道真公の呪いを鎮めるために与えられたのが、学問の神という称号です。
それに祀られることで、呪いはおさまったそうです。
今日でも多くの人が学問の神として菅原道真公を讃えていますが、忘れてはいけません。
彼こそが日本三大怨霊の始まりであり、日本中に災厄をもたらした存在なのです。
決して彼を、怒らせてはいけません・・・・・・彼を讃え祀り続ける必要があるのです・・・・
日本三大怨霊の一人「平将門」の壮絶なる人生
平の名字が示す通り、彼は源平合戦で知られる平家一門の一人です。
当時はまだ坂東と呼ばれていた関東地方、現在の茨城に拠点を置いていました。
当時の坂東はまだまだ未開の田舎であり、土着の勢力と役人たちがせめぎ合っていたそうです。
しかし、平将門公はそもそもそんな時代においても義理堅い人物であり、役員たちに弾圧されていた人たちをかくまっていました。
だがそれが災いしてしまい、彼もまた反逆者の汚名を着せられてしまったのです。
平将門公は強かった、次々と坂東にいた役人たちをなぎ倒しては坂東を征服し、新皇を自称することになったほどにです。
これは即ち、日本の歴史においても数少ない天皇に対抗する、新たな皇を自称したことを意味しています。
しかし、彼の栄華は長く続きはしませんでした。
坂東で勢力を固めた彼は、自分の下で戦っていた農民たちを故郷に帰してしまったのです。
そしてその時を、朝廷に狙われました。
激しい戦いの後に、平将門公は敗れ去りました。
彼はとてつもない怨念を抱き、多くの人間を呪いながら討ち死にしたそうです。
その後に京都でさらされた彼の首は、長い期間腐ることことはなく、生きているかのように近づく者たちを睨みつけていたそうです。
そして、彼の首は茨城を目指して飛び去っていったそうです。
しかし無念にもその首は茨城には届かず、今の東京都千代田区に転落してしまいました。
そこに住まう人々はそんな彼を恐れて、平将門公をまつる首塚を作り上げたのです。
平将門の怨念によって引き起こされた様々な怪事件
・・・・・しかし、東京の街中にあった平将門公の首塚は、絶好の開発の的になったのです。
関東大震災からの復興を期に多くの人がそれを崩して、開発を進めようと試みました。
しかし、誰一人として平将門公の首塚を崩すことは出来ませんでした。
工事が計画されるたびに不可解な事故が連続して、次々と関わった人間たちが死んでいったからです。
特に最も悲惨だったのは、関東大震災後の復興の時です。
当時の大蔵省は平将門公の首塚を取り壊して、新しい庁舎を作ろうと計画していました。
しかし、次々と大蔵省の関係者は病死していき、ついには時の大蔵大臣すらも病死してしまったのです※
※当時の大蔵大臣は早速整爾(はやみせいじ)という人物
人々は平将門公の呪いだと恐れるようになりました。
戦後にGHQが開発を行うとした際にも、重機が転倒して死人が出たそうです。
今日でも周辺のビルは首塚に向けて窓を作りません。日本三大怨霊は千年の時を経ても絶大な力を保ち続けているのです。
決して彼を邪険に扱ってはいけません・・・・・
日本三大怨霊にして日本三大妖怪の一人「崇徳院(崇徳上皇)」
崇徳院(すとくいん)、彼は平安時代に存在した悲劇の皇族であり、その絶望の生涯の後に、大天狗と化してしまったと言われています。
崇徳院は九尾の狐と酒吞童子(しゅてんどうじ)に匹敵する、日本最強の妖怪であるとすらされています。
崇徳院の生涯は波乱と悲劇に満ちていました。
上皇というのは引退した天皇を意味する役職なのですが、それが意味する通り彼は一時的であるとはいえ、天皇として日本に君臨していました。
しかし、当時の朝廷は飽くなき権力争いが発生しており、それに巻き込まれる形で、崇徳院は天皇の座を降りることになってしまいました。
しかし、天皇をやめて崇徳上皇になった後も、彼が権力闘争から逃れることはできませんでした。
朝廷内には彼を担ぎ上げる勢力が存在していたのです。
神輿として担ぎ上げられた崇徳上皇と、彼の後任として天皇に即位した後白河天皇、これら二人を中心にして保元の乱と呼ばれる戦乱が発生してしまいます。
それの結果は崇徳上皇にとって悲惨そのものでした。
敵による闇討ちと焼き討ちによって、味方は壊滅、崇徳上皇は囚われの身となってしまいます。
敗れ去った勢力の神輿がたどる末路は、離島への島流しでした。
崇徳上皇の壮絶な呪いはここから始まった
仮にもかつて日本の頂点に君臨したはずの男が、ろくに木々も生えていない過酷な離島へと流されてしまったのです。
彼はそこから出ることを生涯許されることはなく、波乱に満ちた生涯を終えてしまいます。
崇徳上皇は死の直前まで自分の解放を信じてお経を書き続けたそうです。
しかしそれも朝廷に受け入れられなかったと知った時、彼は絶望とともに死して大天狗となってしまいました。
彼の呪いは凄まじいものでした。
保元の乱において彼と敵対した勢力、それらは全て凄惨な死を迎えました。
あるものは後の戦乱に破れて捕らえられ、首をはねられました。
あるものは全身から凄まじい高熱を出して、苦しみぬいたのち無間地獄に落ちたとさえされています。
そしてついには後白河天皇の息子である、二条天皇すらも病死してしまいました。
100年ごとに訪れる崇徳上皇の恐るべき呪い
崇徳上皇の呪いはそれだけで終わらずに、1164年の彼の死から約100年ごとに、日本そのものを揺るがすほどの災厄が襲い来るようになってしまったのです。
100年後には元寇(げんこう)、200年後には南北朝動乱、300年後には応仁の乱、近いところでは700年後の幕末動乱、これらは全て崇徳上皇の死後100年ごとの間を開けて発生しています。
それ故に彼は、日本三大怨霊と日本三大妖怪、その両方に並び称されているのです。
800年後に当たる、1964年の東京オリンピックの際には昭和天皇が、国を挙げて追悼を行って災厄を逃れることが出来たそうです。
・・・・・900年後の2064年には、崇徳上皇の呪いが完全に消えていることを祈りましょう。
まとめ
菅原道真、平将門そして崇徳院。
彼ら3人の壮絶な半生と呪いについて見ていきましたがいかがだったでしょうか。
途方もない苦しみと図れり知れない絶望を味わった事が、彼らが世を憎む怨霊と化した大きな理由です。
そして、その呪いは現在になっても完全に消え去ってはいません。
忘れないでください。
決して彼らを、怒らせてはいけません・・・・・・彼を讃え祀り続ける必要があるのです・・・・。
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