日本の皇室は初代神武(じんむ)天皇より第126代の徳仁天皇まで、途絶える事無く続いてきました。
しかし、明治維新の動乱の中、明治天皇はその父である孝明天皇(こうめいてんのう)の皇太子ではなく、別の人物とすりかえられた、という説が昔からあります。
初代神武天皇から2600年以上続く皇室。天皇がすりかえられるなどということが、果たしてあり得るのでしょうか。
そして、すりかえられた人物とは一体誰なのでしょうか。
孝明天皇暗殺説
実は、明治天皇の父である孝明天皇(こうめいてんのう)については、暗殺説があり、学者の間でも、まだ結論が出ていない状態です。
すりかえ説の真相を暴くために、まず暗殺説から順番にひも解いていきたいと思います。
孝明天皇の一般的な死因
一般的には、孝明天皇が亡くなられた原因は、天然痘とされています。
医師達が記した記録も天然痘であり、日々の症状が記されています。
しかし、天皇の本当の症状は、医師達の表向きの記録よりも、孝明天皇の典侍(ないしのすけ・天皇の側室にもなれる高位の女官)で、明治天皇の生母である中山慶子(よしこ)が父親に書き送った書状から知ることが出来ます。
孝明天皇の容体
中山慶子に依ると、天皇は一時重体に陥り、医師達からも「今宵が峠」とまで言われましたが、その後徐々に回復に向かい、9日後には食事も取れるまでになって周囲の者達を安堵させています。
ところが、その翌日急に苦しみだされ、嘔吐や下痢の後、最後には体中の穴(目、耳、鼻、口等々)から出血して崩御されてしまいます。
1867年12月25日のことでした。
宝算(天皇の年齢)35歳の若さでした。
この症状がヒ素中毒の場合と同じなので、天皇は毒を盛られて暗殺されたのではないか、という噂が亡くなってからすぐに立ったようです。
実際に大正天皇の女官であった椿の局が、先輩の女官から、孝明天皇は毒殺されたと伝えられたこと(椿の局の日記)や、明治天皇を育てていた中山慶子が、確かな所からしか食物を手に入れなかったことからも、毒殺の噂はあったと言えるでしょう。
しかし、治りかけていた天皇でしたが、ある日天然痘のかさぶたが紫色になってきて、その後容体が悪化しているので、「紫斑性(しはんせい)天然痘」であった、とする説も有力です。
その頃の時代の流れ
当時は明治維新へと日本が向かっていた、正にその時期です。
アメリカからはペリーが開国を迫り、それにつれて諸外国からも開国の要求が次々と幕府に突き付けられていました。
幕府には、既に全国の大名達を統制する力が衰え、長州藩と薩摩藩が、あの坂本龍馬の仲立ちに依って、倒幕の同盟を結ぶことになります。
孝明天皇は日本の文化が損なわれることや、宗教が侵されることを恐れられ、攘夷(じょうい・外国を撃ち払うこと)を唱えられました。しかし、世界の情勢から言って、日本があれ以上特定の国としか交流しないままでは済まされない状況になっていたのです。
孝明天皇は、幕府の力で外国を撃ち払わせるというお考えだったようで、異母妹の和宮(かずのみや)を第14代将軍徳川家茂(いえもち)に嫁がせたのも、幕府との仲を良い状態に保とうとしたからです。
しかし、幕府を倒そうとする薩長をはじめとする討幕派は、何とかして天皇を幕府から引き離し、自分達が天皇を頂点とした新しい政治体形を作ろうとしました。
また、これには公家(くげ)の一派も絡んでいました。
その代表が岩倉具視(いわくらともみ)です。
しかし、孝明天皇はあくまで幕府との関係は良好な形でありたいと希望されていたので、討幕派にとっては次第に天皇の存在が邪魔になっていったのです。
暗殺犯は誰か
では、誰が、どのようにして、宮中の奥深くにお住いの孝明天皇を暗殺したのでしょうか。
何人かの名前が挙がっています。
岩倉具視犯人説
下級の公家であった岩倉具視は、天皇親政(幕府ではなく、天皇が自ら政治を行うこと)を目指して活動していました。しかし、孝明天皇には先述通り倒幕の意思はありませんでした。
そこで、とうとう自分の妹で、孝明天皇の内親王(天皇の娘)を2人(幼くして死亡)産んでいた女官に毒を盛らせた、ということです。
しかし、岩倉具視の妹は、天皇が天然痘に罹るより前に職を解かれていて、当時は宮中にいませんでした。
また、1940年医史学者である佐伯理一郎(さえきりいちろう)氏は、京都の霊鑑寺(れいかんじ・皇室ゆかりの寺宝が多い)の尼僧から、
「岩倉具視が女官に出ている姪(妹の間違いと思われます)をして、天皇に一服毒を盛らした」という証言を得たと研究会で述べています。
佐伯氏は、この霊鑑寺の尼僧こそ、岩倉具視の妹であったと言いますが、今となっては真偽の程はわかりせん。
ただ、岩倉具視の妹は、宮中から追い出されて出家を命じられ、この霊艦寺に入りました。
直接毒を盛ることは出来ませんが、兄から依頼され、宮中にいる知り合いの女官と連絡を取った可能性はあります。
伊藤博文暗殺説
伊藤博文は、元は百姓の出で、若い頃は随分と乱暴者だったようです。
また、実際2人の人間を暗殺しています。
そんなことからでしょう、孝明天皇が厠(かわや・トイレ)に入られた時、伊藤が下から刺殺した、という説まであります。
この噂は、後に海外でも聞かれるようになります。
しかし、孝明天皇は最期まで医師や女官、公家達に看病されたのですから、これは単なるでたらめと片付けた方が良さそうです。
明治天皇すりかえ説のはじめ
明治天皇(睦仁親王・むつひとしんのう)は、14歳で即位することとなりました。
孝明天皇の急逝という混乱の中、討幕派が孝明天皇の意思を継ぐ明治天皇を密かに暗殺し、自分達が思うように動かせる別の人物を明治天皇として即位させた、という説があります。
つまり、すりかえ用の替え玉を事前に準備しておき、そのうえで天皇を暗殺した、ということです。
そもそもの始まりは、昭和4(1929)年、田中光顕(みつあき)伯爵が、南朝(室町時代、天皇家が北朝と南朝に分かれて天皇を各々出し合ったことがあった。南朝が三種の神器を北朝に渡したことで解決)の子孫と自称する三浦天皇こと三浦芳堅(よしかた)に話した内容からだったようです。
芳堅が三浦家の家系図の鑑定を宮中顧問に依頼したところ、元宮内大臣であった田中伯爵が、
「私はこの60年、誰にも語らなかったが、あなたにお話ししましょう。」
と言い、実は明治天皇は南朝の後裔である「大室寅之祐(おおむろとらのすけ)」にすりかえられた、と明かされた、と三浦芳堅は述べています。
その頃には、明治天皇をすりかえたことを知る人物は、田中光顕の他には西園寺公望(さいおんじきんもち)公爵しかいないということでした。
三浦芳堅の話の疑問点
この話については、あくまで三浦芳堅が語った話であり、田中光顕が話したという事実は見当たりません。
田中光顕は12年間宮内大臣を務めましたが、この話は、あくまで三浦芳堅が語ったものです。
田中光顕とは、坂本龍馬や中岡慎太郎らと共に活躍し、2人が暗殺された現場にも駆け付けて、まだ息のあった中岡慎太郎から事の次第を聞き取った人物でもあります。
そんな田中光顕が、初対面の三浦にそんな重大な話をするものでしょうか。
その話と、三浦家が南朝だと認めることとは、全く別の話ではありませんか。
歴史上「自称天皇」が何人も出、その殆どは南朝の子孫と名乗りました。
三浦も、歴史上ではそんな者達の一人として扱われています。
また、最後の元老(げんろう・天皇から国家の大事についてご下問を受けた政治家や元政治家)である西園寺公望の名前を出している点も、話に信憑性を持たせる為に付け加えたようにも感じます。
すりかえられた大室寅之祐とはどんな人物?
南北朝時代後、南朝の血を引く大室家は現在の山口県で、毛利家がお世話をして代々暮らしてきました。
ところで、その大室家で育った寅之祐(生まれた時の名は虎吉)は、実は南朝の血を引いていません。
何故でしょう。説明しましょう。
虎吉の母親は、夫と離婚をした後、虎吉を連れて南朝の血を引く大室家に再嫁します。ところが、大室家で生まれた男の子(寅之祐)は幼くして亡くなってしまいました。
そこで、それまで虎吉と名乗っていた、前の夫との連れ子を寅之祐と改名し、大室家の後継ぎとしたのです。
ですから、大室寅之祐には南朝の血は一滴も流れていないのです。
大室家は南朝の子孫であっても、討幕派が調べれば、寅之祐が南朝の血を引いていないことはすぐにわかったはずです。
2600年近く続く天皇家の血統を継がないような人物を、果たして新政府は正当な天皇として即位させたのでしょうか。
例えば、第26代継体天皇は、第25代武烈天皇に世継ぎがいなかったので、第15代応神天皇から5代後の子孫に当たり、当時越前の国を治めていた継体天皇を探し出して、大和朝廷に天皇として迎えています。
そこまでして天皇家の血筋に拘る皇室や日本人、それも幕府を倒し、天皇をトップとした政治を目指して大政奉還を成し遂げた薩長が、天皇家の血を全く引かない人物を天皇と崇めることが果たして出来るものでしょうか。
明治天皇の不思議
明治天皇が大室寅之祐にすりかわったとされる証拠は幾つか示されています。
見て行きましょう。
右利き・左利き 字が変わった
明治天皇は、生まれつきは右利きだったのに、即位後は左利きになっていたという話があります。
これは不思議ですね。
また、即位前は字が上手くなかったのに、即後は綺麗な字を書かれた、という話もあります。
上が、明治天皇の親署です。当然即位後の署名です。
即位前の字が残っていないのが残念です。
書に通じていない私には、達筆かどうかはわからないのですが、他の天皇も見てみると・・・。
大正天皇は、
昭和天皇は、
平成天皇(現上皇陛下)は、
署名ですから、楷書体ではありませんね。
署名については、代々柔らかい字体のようです。
皇族である有栖川宮家が始めた有栖川流書道を、秋篠宮皇嗣殿下と常陸宮妃華子殿下が継承されていますが、天皇家には天皇家の書法があるのかどうかはわかりません。
ただ、今上陛下ご兄妹は、揃って同じ書の師に習っておられたそうで、それは、秋篠宮殿下が有栖川流の指導を受け始めても、続いたそうです。
本題に戻りましょう。
もし、本当に右利きが左利きになり、字が変わったとすれば、これはすりかえ説を後押しするものでしょう。
幼い頃は虚弱だったのに、成人する頃にはしっかりした体格に?
代々の天皇は相撲を観戦されるのがお好きですが、明治天皇に至っては薩長出身の家臣と実際に相撲を取られた話は有名です。仕える者達も遠慮せずに、時には天皇を投げ飛ばしたとあったそうです。
これが、小さい頃の虚弱体質と違い過ぎるというのです。
しかし、明治天皇は生母である中山慶子の実家で生まれ、5歳まで宮中に上がることはありませんでした。
その間、親王(明治天皇)の悪戯が過ぎると、母である慶子は物置に親王を閉じ込めたと言います。それでも、天皇のお子だけを閉じ込める訳にもいかないので、遊び相手として中山家に住んでいたお付きの男の子も一緒に入れた、との話が、明治天皇の后に仕えた女官の記録として残っています。
また、明治時代になってすぐの、父親宛の中山慶子の手紙の中には、明治天皇が無邪気張りばかり強くなられ、しまいには天下に悪名を残さないかと心配している程です。
“無邪気張り”の意味は正確にはわかりませんが、急に薩長に囲まれて周りの環境が変わり、若い天皇が周りに流されまいと、ご自分の意思を通そうとしたということでしょうか。
孝明天皇は性格が強く、よく公家とも口論になったり、激怒されたりしていますが、明治天皇もそのような血を引いておられたようで、これらから見れば、明治天皇は小さな頃から、かなりやんちゃで、弱々しいイメージはありません。
果たして子供時代、本当に虚弱だったのでしょうか。
そもそも、明治天皇が幼い頃に虚弱だったという説は、以下の写真を基に言われることがほとんどです。
この写真の中央の少年が明治天皇だというのです。
いかにも親王(天皇の息子)やお公家さんらしい感じですが、この写真は下にも書いてあるように、伏見宮貞愛親王(ふしみのみやさだなるしんのう)のものであり、そこから間違えているのです。
また、「明治天皇記」には、生母である中山慶子についての記載があります。
それに依れば、慶子は孝明天皇の息子を、天皇として立派な人物に育て上げる為に、悪いことは悪い、と、明治天皇が大人になってからも文句を言い続けたそうです。
明治天皇も時にはそんな生母を煙たがりつつも、後年慶子が年を取ってから会いに来ると、いつでも喜んで迎えたそうです。
こんな話からは、明治天皇が虚弱でいつも身体の心配をしなければならないのとは正反対に、身体もご性格も強く、生母から厳しく指導された様子がうかがえます。
南朝が正当だとのご判断
皇居外苑、二重橋駅の2番出口を出てすぐの所には、楠木正成の銅像が立っています。
これは、明治33年に住友家が宮内庁に贈ったものです。
南北朝時代、三種の神器を持っていた後醍醐天皇(南朝)の為に闘った楠木正成は皇室に尽くした武士として、明治時代になると人々の尊敬を集めるようになっていきました。
ところが、明治天皇は北朝の後裔です。
ならば、北朝方の皇室について、楠木正成と闘った足利尊氏の像をこそ、建てるべきではないでしょうか。
その後、南北朝を統一し、北朝から天皇を出すことに決めたのも、足利尊氏の孫の足利義満でした。
しかも、南朝、北朝、どちらが正統かと国会で議論になった時、明治天皇は「南朝が正統である」との判断を下しています。
これも、明治天皇が南朝出身であることの証拠の1つとされています。
(どのみち大室寅之祐は南朝の“血“は引いていませんが。)
北朝も南朝も、天皇家の血統であることには変わりありませんが、もし、明治天皇が孝明天皇の皇太子であったなら、何故自分の北朝を正統としなかったのでしょうか。
その点で、明治天皇は南朝出身者とすりかえられた、という見方をされます。
写真嫌い
明治天皇は大の写真嫌いでした。
生涯で撮った写真は即位の礼の時と、軍服を召された写真くらい。
後は、隠し撮りされたものが2~3枚です。
明治天皇が崩御された時、お顔を写真に、と家臣がお願いしましたが、后である後の昭憲皇太后は、
「やはり生前、あれほどお嫌いだったから」
と、お許しになりませんでした。
写真が嫌いな人も多いので、特に明治時代のことですし、天皇のお気持ちもわかりますが、一方すりかえ説から見ると、これは私の考えですが、あまりにハッキリ写る写真は、本物の明治天皇との違いが明確になるので、それを恐れていたのでは?とも考えられるのではないでしょうか。
特に即位直後は、自分が偽者だったとしたら、写真に撮られることは拒否したことでしょう。
京都弁を話されていた
これは、もう決定的とも言えるのではないでしょうか。
すりかえ説を否定する方の意味で、です。
もし、明治天皇が大室寅之祐だったら、ずっと山口弁を話していたはずで、短期間で京都弁と、ましてや一部何百年も前から使われている御所言葉を身に着けることは不可能だと思われます。
また、京都で育たれた明治天皇は、東京に遷られてからも京都を懐かしみ、
「自分の陵(みささぎ・天皇のお墓)は、京都に静かで良い山を見つけたから、そこにするように」
と、言っておられ、そのように取り計らわれました。
それが、京都市伏見区にある伏見桃山陵(ふしみももやまのみささぎ)です。
この点から見ると、明治天皇すりかえ説はあり得ないですね。
大室寅之祐とフルベッキ群像写真
ここにフルベッキ群像写真が残っています。
オランダの宣教師グイド・フルベッキと、フルベッキに英語を習っていた各藩の教え子達が写っています。多くの者が維新後に政府の高官になった人ばかりです。
フルベッキは、1859年に日本に宣教師として来日しました。しかし、日本はまだ江戸時代で、キリシタン禁制の状態だったので、フルベッキは長崎で英語を教えることで生活していました。
そこへ、幕府の長崎奉行所(ぶぎょうしょ:地方を収める幕府の役所)から求められ、幕府の英語教師として雇われました。幕府公認の英語を教える学校には、幕末の武士達が次々と生徒になったのです。
下の名前一覧はどこから出ているのか不明ですが、ここに書かれている人物名は、まだ研究段階と思われますので、確定とは思わないで下さい。
坂本龍馬が亡くなった後に撮られた写真だとする研究結果もあるのです。
(西郷隆盛の像は、この写真を見て作れば本人に似たでしょうに、とか考えないで下さいね。)
見て下さい。
中央下の人物に、「大室寅之祐=後の明治天皇」と書いてありますね。
どこから出た写真かはわかりませんが、ここにははっきりと
「大室寅之助=後の明治天皇」
と書いてあります。
これだけはっきり書くということは、大室寅之助が明治天皇にすりかえられたことを示す決定的な証拠と言えるでしょう。
この文字は明らかに後に加えられたものですが、誰か研究者か、明治天皇すりかえ説に興味を抱いている人が、色々調べた結果書いたものでしょう。
ですから、ある程度の信頼性はあるでしょう。
後の明治天皇の写真と比べて
これは、明治天皇の写真です。
こちらは束帯姿の明治天皇。
微妙ですが、フルベッキ写真の中の大室寅之祐に似ているでしょうか?
なにせ一説には当時13歳であった大室寅之祐の身体が小さいので、顔の詳細がわかりません。
耳の形を見ればわかる、と言いますが、どうでしょう。
2人を並べた写真がありました。
明治天皇の耳がボケてしまっているので、何とも言えませんね。
右耳と左耳で比べなくてはなりませんが、耳の上部は似ていますが、軍服姿の写真と比べても、耳たぶの形は違うように見えます。
皆さんにはどのように見えるでしょうか。
眉や顎の形は異なるようです。
この写真の大室寅之祐は年も若いので、上2枚の明治天皇の後年の写真と単純に比べることは難しいとも言えます。
あばたの跡は?
実は、明治天皇は種痘(しゅとう・天然痘に罹らない為の予防接種)を受けていたので、天然痘には罹らなかったが、大室寅之祐は天然痘に罹った名残りのあばた(天然痘が治った後に皮膚に残る小さな複数のくぼみ)が口元にあったので、ひげで隠した、という説があります。
しかし、束帯姿の天皇はひげを生やしていませんね。
大室寅之祐の顔のあばたもこの写真では確認出来ません。
例え大室寅之祐の口元にあばたがあったとしても、明治5年に撮った束帯姿の天皇はひげであばたを隠していませんから、ひげからはすりかえ説は成立しないことになります。
ご両親のお顔から
これらは明治天皇の父である孝明天皇と生母である典侍・中山慶子の写真です。
眉や口元が、孝明天皇に似ているように思われるのですが、どう思われますか。
フルベッキ写真 もう1つの見解
このフルベッキ群像写真の大室寅之祐とされる人物については、別の説もあり、驚かされます。
孝明天皇が暗殺された疑いがあった為、孝明天皇が崩御されてすぐ、暗殺を恐れた家臣達が皇太子を宮中より密かに脱出させ、討幕派(=天皇親政を目指す)の人々に守らせた、というのです。
つまり、この写真に写っているのは、大室寅之祐ではなく、本物の明治天皇だということです。
これも、判断が難しいですね。
この写真が龍馬暗殺(1867年)後の撮影だとすると、明治天皇は既に天皇の位に就いていますから、やはり皇太子はすりかえられることなく、即位したと考えられるでしょう。
1つの考察
そもそも明治天皇すりかえ説のはじまりは、田中光顕伯爵の話だとされることは、先述の通りです。
これを、南朝の子孫と自称する三浦芳堅が公表したことで、広まったものと考えられます。
もし、田中光顕の話が本当だとすると、天皇家が2600年続いてきた歴史は明治時代に入って崩れてしまったことになり、これは日本の国を揺るがす大問題です。
孝明天皇には、他に親王(天皇の息子)はいなかったので、もし、明治天皇が暗殺されていたら・・・。
しかし、徳川家が御三家を設けて、本家に後継ぎが出来なかった場合の「血のスペア」を作っておいたように、天皇家にも「血のスペア」はありました。
11あった皇族の中の伏見宮家(ふしみのみやけ)、桂宮家(かつらのみやけ)、有栖川宮家(ありすがわのみやけ)、そして江戸時代に作られた閑院宮家(かんいんのみやけ)の4家です。皇太子がいない場合は、この4家から天皇を出すことが決まっていました。
実際に伏見宮家からは、第102代後花園天皇が、有栖川宮からは第111代後西天皇が、そして閑院宮家からは第119代光格天皇が即位し、現在の皇室に繋がっています。
薩長ら討幕派が明治天皇を暗殺したとしても、これら皇族(現在は旧皇族)の中に、自分達と同じ考え(幕府を倒す)を持つ宮家もあったかもしれません。わざわざ山口県から、天皇家の血を引かない人間を、自分達が家臣として仕えなければならないトップに据える必要はないのではないでしょうか。
まとめ
明治天皇すりかえ説を色々な方向から調べ見てきました。
右利きが左利きに変わった点や、幼い頃と即位後では身体の作りが違う、といった点からは、すりかえがあった可能性が考えられます。
しかし、多くの証言はすりかえ説を否定、若しくは断定は出来ないものでした。
また、何より生母である中山慶子が、即位後も天皇に会っているのです。別人にすりかえられたのなら、会いに行く気持ちも必要もないでしょう。
まして、皇室の血を引かない大室寅之祐を皇位に就けることは、2600年続く日本の皇室への常識として考えられないのではないのではないでしょうか。