賛否両論があるとは知らずに興味本位で手に取ったこの作品。
遺族の許可を取らずに執筆、出版が行われたかなりの問題作であるが、率直な感想は読んでよかった。
前半部分は自己陶酔表現が激しく、手記というよりもポエムだ。
彼の感性は事件当時のものと何一つ変化していないとさえ思ってしまうほどで、人を殺すという行為をあたかも自分の特殊な性癖のせいであるから仕方ないと正当化しているようにも感じる。
しかし、読み終えると彼の真意が少しわかった気がする。
特に最後の数ページには、出所後の暮らし、この本の出版に至るまでの葛藤、社会復帰の辛さについて赤裸々に語られており、被害者遺族に対しての償いをする為にただ頑張っている一人の人間のように思えた。
この本に対して様々な批判が飛び交っている。
事件を題材に本を書く、遺族の許可を取らない、などのことで批判をされるのは当然だと思う。
しかし、殺人を犯したことそのものに批判をするのはいかがなものか。
彼自身、少年法で守られていたとはいっても、正当な刑を受け、更生したはずだ。
そんな人間に対し遺族ならともかく、第三者がとやかくいう必要性が私には感じられない。
あとがきにある「この十一年間、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。」という文。
これがすべてを物語っている。
彼は事件から11年間、苦しみ踠き続けたのは明白だ。
そんな中、やっと手に入れた生きる術が本を書くという行為であって、こうすることしかできなかったのであろう。
そしてこれが彼に取って償うということであり、生きるということでもう良いではないか。
むしろ生きたいと思うこと自体が、立派な償いなのだと私は思う。
本レビュー記事は被害者側でないゆえに書けているということを、私自身大変理解しており、もし家族や身近な人間が被害に遭ったとしたら、今回のような意見に至ることができるかと言われれば、まあ無理である。
しかしそれでいいと私は思う。
私たちのような第三者が被害者遺族と全く同じ気持ちになるということ自体が間違っている。
仮に私が今回のような出来事を被害者側で経験し、世間から同情されても正直吐き気しかしない。
実際に被害を受けていないお前らに何がわかるのだ、という結論に至ってしまうだろう。
私自身当時はまだ生まれておらず、同世代にはこの事件のことを知らない人がいるくらいである。
残念なことに少しずつ風化していっているという現状がある中で、今後いつ同じような事件が起こるかはわからない。
その為内容云々の話以前に、少しでも世間の目に触れる機会が増えたという事実だけでも、この本に大いなる意味を見出せるのではないだろうか。
・タイトル:絶歌 神戸連続児童殺傷事件
・著者:元少年A
・出版社: 太田出版 (2016/4/22)
・ジャンル:犯人の手記